【作成中】『水からの伝言』の基礎知識【考察編1】

作成開始:2008.02.05.
暫定公開:2008.02.24.
最終更新:2008.03.06.
PSJ渋谷研究所X謹製 MAIL

この「基礎知識」は、大きく「基礎編」「考察編1」「資料編」の3つに分かれています。最初に「基礎編」をざっとチェックすることを強くお勧めします。また、この【論点1】は「考察編」の1ページ目に当たります。まだ本文の一部が執筆されていません。
この「基礎知識」の記述では物足りない方、より詳細を知りたい方には、学習院大学の田崎晴明教授によるWebページ「『水からの伝言』を信じないでください」をお勧めします。

 

【ご協力ください】
いま手元に書籍の現物がないので、主に記憶に頼って書いています。お手元に資料等をお持ちの方、事実誤認や不適切な表現、過不足などにお気づきでしたらMAILまたはブログコメント欄などでご指摘ください。特に科学的手続きなどについて、ご指摘をお待ちしております。


【論点1】

科学的な事実ではなくても、道徳的な話、いい話ではないですか?

現代の科学で確認できないだけで、将来わかるということはないですか?

違うというなら、なぜあのような結晶ができるのですか?

違うというならば反証実験をすればいいのではないですか?

「ご飯に声かけ実験」は成功例も多数ある。実験で否定されたと言っている人は、最初から信じなかった人ばかりでは?

 


反証実験もしないで「事実ではない」と否定することができるのですか? それは科学的な態度とは言えないのではありませんか?

「絶対にない」とは言い切れないのではありませんか?

「主張している人が証明すべき」なんて、 科学側のルールの押しつけじゃないの?

『水からの伝言』はニセ科学(疑似科学)だという主張を見ました。どういう意味?

これは説話やたとえ話ではないのですか? 説話やたとえ話もニセ科学(疑似科学)になってしまうのですか?



これは宗教ではないのですか?

科学的には確かめることができなくても、そこに真理があるということだって、あるのではないでしょうか?

ごく少数の信じる人がおかしいんで、社会的に悪影響があるとまで考えるのは大げさではありませんか?

自分の好きな話を信じて、なにがいけないんですか? 誰かに、なにを信じるべきかを指図する権利はないのでは?(未)

こんなのを真に受けている人は、単に無知で無教養なんじゃないの? みんなの問題とは思えないんだけど。(未)

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【論点】

Q:科学的な事実ではなくても、道徳的な話、いい話ではないですか?

A:少なくとも「道徳的な話」でも「いい話」でもありません。

●「いい」と「きれい」、「悪い」と「汚い」
彼らの主張を短くしてしまうと、「美しいものは善」で「醜いものは悪」ということになります。外見で善悪を判断するという話が、「いい話」でしょうか?
しかも、掲載されている写真から考えると、その「美醜」とは対称的かどうか、均整がとれているかどうか、ということ「だけ」のようです。
では身体に欠損のある人は悪人ですか? バランスの悪いプロポーションの人は悪人ですか?

●「いい言葉」は、いつでも「いい言葉」なのか
感情と裏腹な言葉というのは、いくらでもあります。感謝などない開き直った「ありがとうよ、けっ」。盗みが成功したときの被害者への揶揄「ありがとさーん(^◇^;)」。恋人同士の戯れ言「もうっ、バカなんだから〜(^^)」。頑固オヤジの愛情の現れである叱責「ば、ばかやろうっ!」などなど、例外的な使われ方はいくらでも考えられます。
言葉は、それを発するときの「文脈」によって意味が変わるのです。(注1

●「shine」はよい言葉ですか?
江本氏らによると「太陽」や「光」はよい言葉のようです。では、アルファベットで「shine」と書いたらどうでしょう? 英語では「シャイン(輝く)」ですが、日本語のローマ字表記だとすれば「シネ(死ね)」です。(注1

●ロックは悪くてクラシックはいいって、おかしくないですか?
ロックに分類される音楽でも芸術性が高く、別に不道徳な内容ではないものもたくさんあります。逆に、クラシックに分類される曲でも、奔放な性を熱かったり不道徳とみなされかねない内容の曲もあります。単に好き嫌いで分けているのではないかという指摘もあります。(注1

●同姓同名の別人は、どう判定されるのでしょう?
アドルフ・ヒトラーという人物は、これまで世界中に一人だけだったのでしょうか? 悪人と同姓同名であれば悪人で、聖人と同姓同名であればみんな善人なのでしょうか?(注1

●「ご飯に声かけ実験」でお友だちの名前を試す子どもが出て来たら?
【実験】の6.として紹介した「ご飯に声かけ実験」は、過程や学校で手軽にできるといわれ、実際に学校や夏休みの自由研究などで採り上げているケースが知られています。書籍では、水を入れた容器にアドルフ・ヒトラーやイエス・キリストなどの名前を書いた紙を貼ったときのことが出てきます。クラスメイトや教師、親などの名前で実験をしてみる子どもが出て来たら? 結晶ができなかったら、その人は悪人なのでしょうか?

●「思いさえすれば世界は変わる」?
彼らの言う「波動」があろうがあるまいが、「言葉や思念が物質に影響を与える」という考え方は、「願いさえすればかなう」という世界観に容易に結びつくでしょう。実際に江本氏は、『百匹目の猿』現象(参考1)を講演などで肯定的に扱ってもいます。「なんとなく願っていればかなう」と考えている人たちは、たとえば投票場に足を向けるとか、実践が必要なときに行動するでしょうか?

●子どもたちは言葉の影響をどう使う? 
学校の道徳でこの話を教わった子どもたちは、どう考えるでしょうか? 「よい言葉を使おう」「悪い言葉を使うのはやめよう」と考えるかもしれません。しかし、たとえば悪意を込めて「“ありがとう”“ご苦労様”と罵倒する」ようなことが、防げるでしょうか? むしろ、格好の武器を手に入れたことになりませんか?
また、悪い言葉をかければ、それだけで身体に悪い影響を受けるとしたら、本当に悪い言葉を使うのをやめるのでしょうか? 憎しみや悪意をもったら「悪い言葉」をぶつける、といったことにはならないでしょうか? いえ、書いた紙を、その人の机の下やイスの下に、その人に向けて貼り付けるだけで攻撃できるのではありませんか? これでは「新しい呪術」の誕生です。

●気づいた子どもたちは? 気づかなかった子どもたちは?
中学生にもなれば、そんな話はおかしいと気づく子どもも出てくるでしょう。そのとき、先生の「行いを正してほしい」という意図を汲んでくれるのでしょうか? 「愚かなおまじないを、本気で信じていた先生」「子どもたちに、新しいナマハゲを教え込んだ先生」という印象が生まれませんか?
また、誰からも「そんなことはあり得ない」と教えられず、正しい知識ではないということに気づけなかった場合、大人になってから霊感商法などの餌食になりやすい、などということが起きないでしょうか?

●不確かな話や創作を、学校で事実として教えてもいいの?
江本氏ら自身が、この話を「ファンタジーでありポエムだ」と言っています。「ファンタジーやポエム」だとすると、創作のようなものです。これを「お話」としてではなく、実験で確認された事実であるかのように学校で教えることには問題があります。
学校で教えるべきことは「確かな根拠に基づいてものごとを考える」姿勢のはずです。創作や満足に確認できないような仮説を「事実」として教えるべきではありません。

注1:江本氏らは、書籍発表以後、人名や複数の読み・意味がある言葉については「その文字を書いた人の思いの影響を受けるので、適切な反応が得られる」というような説明を加えました。また、音楽については「ロックでも、よくない歌詞の曲が汚い結晶になる」と説明を変えました。彼らの「実験」が、第三者による再現などができない「実験もどき」である限り、このような恣意的な言い逃れはいくらでも可能です。(もとの場所に戻るときは、ブラウザの「戻る」ボタンで

Q:現代の科学で確認できないだけで、将来わかるということはないですか?

A:これまでにわかっている事実だけで、十分に否定できます。

江本氏は「今後証明されると信じている」と述べていますが、その可能性は大変に低いと言わねばなりません。すでに【評価】でも触れたように、これまでに事実と確認されていることだけで、「言葉や思念が、物質に影響を及ぼすということは、考えられない。あり得ない」ということが十分に説明可能だからです。

Q:違うというなら、なぜあのような結晶ができるのですか?

A:雪の結晶と同じ原理だと考えられます。

水の氷結結晶ということは、要は氷です。あの形状は「雪の結晶」と同じようなものだと予想されます。
雪の結晶の形が決まる原理は、中谷宇吉郎によって1950年代に空気中の湿度と音頭の関係によって決まることが確認されており、その成果は「中谷ダイアグラム」として世界的に知られています。
江本氏らの実験では、冷凍室で凍結したサンプルを、マイナス5度の低温室に持ち込んで顕微鏡で観察するという方法がとられています。冷凍室から持ち込んだサンプルの表面温度はマイナス5度よりもかなり低くなっているはずなので、低温室の空気中の水分がサンプル表面を核とした「気相成長(雪の結晶ができる過程)」が起き、それを観察・撮影しているものと予想されます。
その場合、結晶になっているのは低温室内の空気中の水分であり、声をかけたりなにかを見せたりした水とは関係ないことになります。

雪の結晶については「北海道雪たんけん館」ホームページで詳しく見ることができます。中谷ダイアグラムや雪の結晶の形が決まる仕組みについても、「天から送られた手紙って?」で簡単に、「雪の研究室」で詳しく紹介されています。
中谷宇吉郎とその業績を伝えるテレビ番組をネットで見ることもできます。「雪は天からの手紙 中谷宇吉郎」(29分。Sky Perfect TV サイエンスチャンネル実験!発見!歴史科学館」第一話)

Q:違うというならば反証実験をすればいいのではないですか?

A:反証実験は一部行われていますが、完全に行うことは困難です。

ご飯に声かけ実験」は数多く行われていることがネット上でも確認できます。そこで確認できることが2つあります。

  1. サンプル数が極端に少ない 典型的な「ご飯に声かけ実験」では「ありがとう」「ばかやろう」「無視」の3種類の容器が、それぞれひとつずつ用いられます。確実な実験としては、それぞれにいくつもの容器を用意して、どれぐらいの確率で同じ結果になるかを調べる必要があります。
  2. 江本氏らの主張通りにならない例も、何件も確認されている 上述のような3つのサンプルで実験された例だけでなく、サンプル数を増やした実験も行われていますが、必ずしも江本氏らの主張の通りの結果は出ていません。

ただし、江本氏らの「氷結結晶」の「実験」は、必要な条件が十分に示されていないため、再現することができません。低温室など、特殊な環境が必要な部分もあります。そもそも結晶の判定は江本氏の主観です。また実験条件が明示されていないため、どのような結果が出ても「注1」で述べたように、いくらでも説明を付け加えたり解釈を変えて反論することが可能です。
このような主張は「反証可能性がない」とされ、非科学的主張や疑似科学の代表的特徴のひとつとされています。

Q:「ご飯に声かけ実験」は成功例も多数ある。
   実験で否定されたと言っている人は、最初から信じなかった人ばかりでは?

A:報告者にバイアスがかかっている可能性は、両方にあります。

江本氏らのもとには、「ご飯に声かけ実験」について多くの成功例が寄せられていることがホームページで述べられています。
また、上でも触れたように、「ご飯に声かけ実験」は数多く行われていることがネット上でも確認できます。そのなかには、うまくいくはずだと思って実験したのに「失敗した」と書いている人もいました。つまり、実験結果が思ったものと違ったのは、なにか自分が間違えたためだと考えたのです。
このように「失敗した」と考えた場合、その結果は江本氏らのもとには報告されない確率が、かなり高くなるでしょう。

物理的な条件だけでなく、なにか、心がけが悪かったとか、声をかけたときの念じ方が足りなかったとか、十分に信じなかったからだとか、心の問題として考えている場合もありそうです。その場合、「失敗した」と考えた方々(とくに子どもたち)の気持ちを考えると、居たたまれないと思いませんか?

Q:反証実験もしないで「事実ではない」と否定することができるのですか?
   それは科学的な態度とは言えないのではありませんか?

A:すべての主張が実験しなければ確かめられないわけではありません。

科学の特徴のひとつに、「予言」があります。同じ条件を整えれば常に同じ結果が得られる、つまり「次に何が起きるかを、予見する(あらかじめ知る)ことができる」わけです。
この『水からの伝言』の主張の場合、すでに知られている事実を組み合わせるだけで「そうはならない」ということが言えてしまいます。それぐらい強烈な「あり得なさ」をもった主張なわけです。

ときおり「実験で否定されるまでは『未確認』だ」という主張がされることがあります。しかし、どれほどあり得ない主張についても、それを否定するためには検証のための実験が必要とする態度は、「極端な相対主義」と呼ばれています。上記の「予見できる」という特性から言っても、むしろ「非科学的な態度」ということになります。

Q:「絶対にない」とは言い切れないのではありませんか?

A:「ないこと」の証明はできませんが、「ほぼない」と言うことはできます。

「否定するなら、起き得ないことを証明すべきだ」という主張がなされることもあります。これは「悪魔の証明」と言って、有名な「原理的にできない証明」です。「××ということが起きる」「○○という物質がある」といったことの証明なら、一度でも実際にやって見せればいいわけです。しかし、何度実験をしてできなかったとしても、どれほど探しても見つからなかったとしても、「起き得ない」「存在しない」ということの証明にはなりまません。次の機会には、できたり見つかったりするかもしれないからです。つまり、科学という方法では「ないことの証明」はできないのです。
しかし、実際には「何度やってもできない」「いくら探してもない」ということで、「おそらくできない」「おそらくない」ということは言えます。この場合「可能性はゼロではないが、ほぼゼロに近い」という意味で「事実上、否定された」ということになります。

もちろん、実験技術の未発達などの事情で「そのときは確認できなかったが、後に正しいことが確認された」というような事例は、いくらでもありますし、間違った実験がされていたことも無数にあります。しかし、そのほとんどは「あり得ないような主張」についての検証ではなく、「仮説としてはあり得るのだが確認できなかった」というものです。
科学における原理原則をくつがえすような「あり得なさ」をもった主張が確認されれば、それは例外中の例外であり、歴史を書き換えるような大発見です。しかし、天動説から地動説への転換や、ニュートンの古典物理学からアインシュタインの現代物理学への転換でさえも、根本的な原理原則がくつがえされたというようなものではありません。むしろ、「それまでの説明よりも整合性の高い説明に修正された」といった性格のものです。もちろん、ガリレオ・ガリレイやアインシュタインの業績が、常識破りの大偉業であったことは間違いありません。多くの知見を修正しなければならないような、大きな影響を与える発見でもありました。しかし、それでも根本的に原理原則から崩したといった出来事ではなかったのです。

Q:「主張している人が証明すべきだ」なんていうのは、
   科学側のルールの押しつけじゃないの?

A:科学的主張と認められなくてもよいのであれば、ルールを守る必要はありません。

科学の世界のルールとしては、新しい発見をしたと主張する者が、それを証明する責任を負うことになっています。そうでなければ、誰かのほんの思いつきについても、あるいはどれほどあり得ない主張であっても、たとえば国の予算で雇われているプロの科学者たちが片端から実験しなければならないことになってしまいます。実験をするには、その貴重な時間とお金を使うことになり、これは科学の発展にとって著しく非効率的であり、その間にできたはずのほかのことができなくなるわけで、社会的に大きな損失となります。

しかも「科学的な主張として科学の世界で認められるため」には、これだけでは足りません。そのジャンルの専門家による「査読」というチェックが入る「学術雑誌」に論文を発表する必要があります。たとえば一般の雑誌や書籍、学会発表だけでは十分ではないのです。
ここまでしても、その主張は最低限の条件を備えていることが保障されるだけで、その主張の内容が正しいということにはなりません。世界中の科学者が追試(確認のための実験)を行います。その段階で「確かに同じことが起きるようだ」と確認されて、初めてその主張が認められるのです。
そのためにも、論文には「再現するために必要な情報」が漏れなく掲載されている必要があり、査読と呼ばれるチェックは、そうした条件を満たしているかどうかを確認しているのです。査読の段階で書き直しを命じられるケースはたくさんありますが、それが不服であればほかの学術雑誌に持ち込むこともできます。

もちろん、「科学の世界に認められる必要はない」と考えるのであれば、どこにも論文なども出さないという選択をする自由もあります。ただし、その場合、誰もその人の主張を確認することができず、いつまでも「未確認」ということになるだけです。

Q:『水からの伝言』はニセ科学(疑似科学)だという主張を見ました。
   どういう意味ですか?

A:科学っぽく見えるかもしれないが、科学的な主張とは言えないという意味です。

ニセ科学や疑似科学という言葉は、たとえば学術的な定義のある言葉ではありません。したがって、誰もが同じ意味で使っているとは限りませんが、およその共通点は見出すことができます。

そのひとつは、科学っぽい装いをもっていることです。具体的にどんなものが「科学っぽい装い」なのかについては、論者によって微妙に異なります。たとえば、なんらかの体系をもっているように見えれば「疑似科学」と呼ぶ人もいます。
科学用語を使ったり、実験で確認された事実であるかのように主張するが、実際には科学的な手続きを踏んでいなかったり、論理的に破綻していたり、用語を全然別の意味で使っているようなものも、一般の人には科学的な主張と区別がつかないことがあります。私たち「PSJ渋谷研究所X」では、こうしたものを「科学ではないのに科学のようなふりをしている」というような意味で「ニセ科学」と呼んでいます。

『水からの伝言』の場合は、「実験」で確認されたかのように語っているけれども、実際には「実験」としての要件を満たしていません(【評価】参照)。そのためニセ科学として扱っています。結論が誤りかどうかは、この点では問題ではありません。
しかし、実験が不十分なだけでなく、その主張の内容も、ほとんどあり得ないものです。そのため、代表的なニセ科学のひとつとして扱っています。


Q:これは説話やたとえ話ではないのですか?
   説話やたとえ話もニセ科学(疑似科学)になってしまうのですか?

A:江本氏は「ポエム」「ファンタジー」等と言いつつ、「事実だ」とも言いたいようです。
  また、説話やたとえ話は、ふつうニセ科学(疑似科学)とは考えられていません。

説話やたとえ話ではないという点については、前述の項目をご参照ください。

説話やたとえ話は、一般に「誰でも確認や再現が可能な事実」とはみなされませんから、科学的な主張とまぎらわしいということにもなりません。したがって、ニセ科学や疑似科学の問題を考えている人で、こうしたものを問題だと考える人はいないはずです。
ただ、ニセ科学(疑似科学)についてあまり詳しく知らない人は、混同することがあるようです。

また、「事実でないことを学校で教えるのがまずいと言うなら、イソップ物語などの動物がしゃべるような童話もまずいということか。それはおかしい」という主張がされることがありますが、そうした童話は事実とまぎらわしいわけでもなければ、たとえば「動物は本当は人間の言葉をしゃべるのだ」という意味で教材にされることは、まずないでしょう。

子どもたちの情操を豊かにするための童話や創作、小説などのノンフィクションを「実話ではないから教材としてふさわしくない」などと主張する人は、存在したとしてもかなり珍しい部類に入ると思われます。

Q:これは宗教ではないのですか?

A:宗教ではありません。

確かにお坊さんなどの宗教人が肯定的に紹介している例があります。また、日本には古来から「言霊(ことだま)」という考え方があり、その観点から『水からの伝言』を支持している人もいます。

近代において、それが宗教であるためには「教祖」「教団組織」「教義や戒律の書かれた教典」「信者」などが必要だと言われています。「オレは今日から独立国を作る」と言っても、国土や国民、代表する政府などのない国家は存在し得ないのと同じですね。
『水からの伝言』には、上記のどれもないと言っていいでしょう。仮に江本氏を教祖のようにあがめ、氏の著書を教典のように扱う信者のような人がいて、それが団体を作っているとしても(そのようなものがあるという意味ではありません。仮にあったとしても、ということです)、それは飽くまで比喩の問題で、宗教に似ているだけです。

また、言霊信仰は、日本においては神道と密接に関係し影響を与え合っているとは思いますが、土俗信仰とか民間信仰とでもいうようなもので、ふつうは宗教とはみなされていません。
世界の宗教のなかにも「言葉や発声が外界に影響を与える」という意味で似たような概念はあります(インド仏教における「神聖音」や、キリスト教・ユダヤ教における「みだりに神の名を唱えてはならない」とする戒律など)。広くとらえれば宗教音楽も同じようなものかもしれません。しかし、いずれも宗教的な説話や概念、教義などの一部に過ぎません。

ただし、もしも仮に「超自然的なものを信じること」全般を指して「それは宗教だ」という人がいるのならば、その人にとっては宗教だということには、なるかもしれません。

そして、ここが最も重要ですが、宗教であったとしてもそうでないとしても、また、言霊が実在するとしてもそうではないとしても、『水からの伝言』の主張の問題点が解決されるわけではありません。

Q:科学的には確かめることができなくても、
   そこに真理があるということだって、あるのではないでしょうか?

A:「真理」とはなにかにもよるでしょうけれども、きっとあるでしょう。

科学、とくに自然科学で確認できることは、基本的に自然界の物理現象に限られます。人体や脳の働き、心の働きなどについてもわかったことは年々歳々増えており、今後も知見は増えるでしょう。しかし、だからといってたとえば「人生にはどのような意味があるのか」とか、「どのように生きるのがよいか」といった問題について自然科学が関わることはこれまでありませんでしたし、今後もないでしょう。

ただし、哲学や倫理学などの人文科学もまた「科学」であり、まさに「人はどう生きるべきか」「生にはどのような意味があるのか」といった問題を扱っています。また、法学や法哲学などの社会科学も「現代人が要求される規範はなにか」といった現代社会に生きる人間の活動について科学的に研究が行われているといっていいでしょう。

そうした諸学問の領域で得られた知見のなかには「真理」があるかもしれません。

しかし、学問の成果を自分の人生にどのように受け入れるか。そもそも受け入れるかどうかは、個々の人間が決める権利を握っています。それが賢い生き方かどうかは別として、学問の成果を拒絶する生き方をしてはいけないなどという決まりはありません。もちろん、学問の中にしか「真理」はないなどということも、言えはしません(もちろん、真理は学問の中にしかないと信じるのも自由ですし、また逆に学問の中には真理などないと信じるのも自由です)。

また、なにを重要と考えるかも人によって異なります。そういう意味では、真理は人の数だけあるのかもしれず、科学や学問があなたに代わってそれを決めることはできません。

Q:ごく少数の信じる人がおかしいんで、社会的に悪影響があるとまで考えるのは
   大げさではありませんか?

A:社会的な問題としてとらえるのは大げさかもしれません。
  しかし、少なくない人が信じているか共感しているのは、間違いなさそうです。

【影響】で見たように、『水からの伝言』や類書を好意的に受け止めている人の数は、決してごくわずかとはいえません。そして、その少なくない人たちが、【論点】の最初で示したような数々の問題点に気づかなかったり、あるいは気づいても目をつぶったり拒絶したりしている可能性があります。

もちろん本当に気づかなかったり拒絶したりしているのかは不明です。しかし、これまでにネット上や面談で指摘した際に、「事実でなくても気にしない」「そうした問題点には気づかなかった」「人にとやかくいわれたくない」等という反応を示した方は、確実に存在しました。
彼らが例外的な存在ではないとしたら、なぜそうした事態が起きているのでしょうか。
また、仮にそうした人たちが例外で、多くの人はあくまで「たとえ話であって事実ではない」として受け入れているのだとしても、すでに指摘したような問題点の大半は、問題でなくなるわけではありません。

今のところ、何が起きているのか確定的なことはなにもいえません。たとえば、大人たちの科学的リテラシーの低下(あるいは未成熟)の現れなのかもしれません。あるいは、理知的に振る舞うことへの反感やあきらめが静かに浸透しているのかもしれません。単に、かなりどうでもいい話なので、まじめに考えていないだけかもしれません。もっと別の要因があるのかもしれません。
しかし、もしも、事実を重視せず、確かな根拠に基づいて考えることをやめたり、不慣れなためにうまくできない大人が増えているのだとすれば、いや、増えているわけではなくとも少なくないのだとすれば、それは社会にとって大きな不安定要素ではないでしょうか。

Q:自分の好きな話を信じて、なにがいけないんですか?
  誰かに、なにを信じるべきかを指図する権利はないのでは?

A:なにを信じるかは、個人の自由です。誰も止めることはできません。
  しかし、誰かがそれを批判するのを止めることもできません。

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Q:こんなのを真に受けている人は、単に無知で無教養なんじゃないの?
  みんなの問題とは思えないんだけど。

A:個々の人の知識や教養の問題もあるかもしれません。

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